ヘイオン
平穏無事な日であるように思える。
それは、
自分にとって。
自分がそんな環境にいる事ができて、そう思えているからである。
しかし、今現在、自分が知り得ていない、想像できないところでは、まったく平穏無事ではない状況が繰り広げられている。きっと。
... というか、
当たり前というべきなのか、
まず、何らかの平穏無事ではない事は常に起こっている。
日本だけでなく世界にも目を向ければ、さらに、果てしなくである。
毎日毎時毎分毎秒 .....
後に"大きい"と表現される規模の災害や事件が起こった日。
そこから毎年訪れる同じその日に、
ニュース .. 報道 ... メディアは、引き続きその事とその被害の状況を取り上げる。
年月が経つと、その取り上げる事自体 薄れていくという問題意識をも伴ないながら。
また、それらに呼応するように、みんな様々な気持ちを新たにする。
もちろん、それは大切な事だ。
そういった折にふれて という事もとても必要だ。
正直、"思い出す"キッカケになるという点でも重要である。
だけど、
いつも思う。
被害に遭われた人々の苦しみ悲しみは、取り上げられていない そのほとんどの時間、また 報道されなくなってからも、
日々続いているはずだ。
それと、
例えば、"大きい"とは、どれくらいの規模なのか?
どこからが大きく、それ以外は小さいのだろうか?
取り上げられていない"小さい?"災いは他どれくらいに上るのだろうか?
その取り上げられていないなかで、被害に遭われているであろう人々は、"人知れず"どう生きているのだろうか?
災いは自然災害だけではない。
第二次大戦後.. 今のところ我が国には起こっていない 戦争。
人災 ... 犯罪。
犯罪とまで断定できない事。
所謂イジメ、ハラスメントと呼ばれる事までも含めて。
ヒトによっての感じ方まで言い出すとキリが無いとも言えるが、
自ら命を絶つというケースも昨今多々ある。
そしてそれらがニュースになったとしても、当然 そのすべては伝わって来ない。
いつも思う。
流れてきた情報だけを鵜呑みにしてしまって、あまりにも考える事をやめてしまってはいないだろうか?
その反対側にあるものを気づく事も無しに。
情報を得るという事の限界も承知で、
わかっていながら、
そんな情報の取り方が"癖"になってはいないか?
と、自分に問う。
みんな どうなんだろう?
今朝、仕事に出る前、雲ひとつない青空を見た。
まるで、平穏無事であろう日を象徴するような。
ゆえに、
特別ではない そんな日にこそ、
敢えて、
知り得ている知り得ていないに関わらず、そんな厳しい環境下にいるであろう人たちに"思いを馳せる"という事だけは少なくとも忘れないようにしたい。
自分のなかの折にふれて。
結局のところ、その"実際"と"真実" すべては当事者しかわかり得ない。
その多くの方々の苦しみ悲しみは計り知れず、ましてや、自分なんかが拙い言葉で語れる事ではない。
さらには、自分ができる事など、とてもとても小さい。
しかも、その小さな事すらやれてはいない。
だから、
せめて。
いつどうなるかわからない 自分が平穏無事だと思えている今日という日に感謝しながら。
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こんな事を綴っている間にも、
台湾で、M6.1の地震があった様だ。
被害が最小限である事と、被災された方々には1日も早い復興を切にお祈り申し上げます。
この報道も、情報の一部でしかないという事を頭に置いて。