モノゴコロ

⭐️ 物心がつくって.. 幼い頃の話で よく言うけど... ⭐️ ⭐️ 実は.. それ以降ずっと.. 物心はついたままなんだ.. ⭐️ ⭐️ 生きてる限り... ⭐️

コエラレヌモノ

 


ちょっとした事から激しい言い合いになって、挙げ句の果てには玄関口でつかみ合いとなった。
気がつくと誰かに後ろから羽交い締めにされ止めに入られていた。
隣の家の兄ちゃんが騒ぎに気づいて、鍵の開いていた玄関に慌てて入ってきたのだった。

大学生の頃、オヤジとケンカした時の事であった。

なんか、ホームドラマの1シーンのようだった。
今思うととても恥ずかしい話だが。
その時、一瞬、力なく押し倒されたオヤジを見て、後でとても寂しい気持ちになったのを憶えている。
やっぱりまるでホームドラマだ(苦笑)

お互い多少熱くなるところはあったが普段はそんなに干渉し合うでもなく、特にオヤジは生涯 経理マンだったからか、キッチリしていたというかマジメというか、家族に対してもどこか事務的な感じを見せるところもあった。
決して悪いというのではなかったが、でも、そこのところがちょっと物足りないというかアッサリしていたというか。
自分にとっては少し不満な時もあって、ぶつかる事もあった。


ちょうど12年前の今日、癌で亡くなった。

早いものでもう十三回忌だ。


死期を悟って、遺言めいた事を書き記した時にも、親戚や友人知人の連絡先とか、各種手続きの仕方であるとか、後はどうしたらいいのかとかが事細かに書かれてあって、
なんか、遺言というより、引継書みたいな感じだった。
オヤジらしかった。

一方、外では学生時代の友達が多く、ちょくちょく旅行や飲み会などを一緒に楽しみ、大切にしていた。
麻雀が好きで毎週打ちにも行っていた。そんな麻雀仲間との付き合いもまた大切にしていた。
友達は大切にしろよとよく言われたものだった。
それなのに、最後の入院中は、そのすべての友人の見舞いを一切断り、ベッタリではなかったが可愛いはずの孫が病院に来る事さえも拒んだ。


情けない姿を絶対に見せたくない。

それが理由だった。


昔のひとだからか、家族に弱みを見せるようなところも一切なかった。
体育会系ではなかったが、静かに『オトコはこうあるべきだ』というものを持っていた。


中小企業ではあったが、総務経理部長で常務取締役も務めていた会社が倒産した時には、いち早く会社の状況をわかっていた立場から、周りにかける迷惑をできるだけ最小限にし、また従業員に退職金を支払えるうちに早く会社を潰した方がよいという判断で、経営が苦しくなって訳のわからなくなっていた社長を説得したらしかった。
当時の部下でオヤジの事を慕ってくださっていた方から、亡くなった後、お参りに来ていただいたときに聞いた。

その会社倒産の時、自分はちょうど大学入学が決まっていて、
そんな状況を自分なりに気にして「オレ、働いてもええで」と話したところ、
「そんな事は考えんでええ、大学ぐらいは行かせたる。」と、
まったくもって心配はいらないという感じでサラっと流された。

その後、何社か会社をかわったり経理事務所などにも在籍したりしていた様だが、すべて培った実力と信頼されるなかで得た人脈で渡り歩いたのだと思う。
もちろん不安やプレッシャーはあったのだろうが、何よりもそこには、何があっても生きていけるという自信が感じ取れた。
それが家族に安心感をもたらしていた。
『オトコはこうあるべきだ』を体現していた。

その時の言葉通り、自分は何の不自由もなく大学まで行かせてもらい、育ててもらった。
にも関わらず、冒頭の、押し倒すケンカをしてしまう親不孝さ加減である。

それどころか、
さらに自分は、就職して結婚し二人いる子供がまだ小学生の時期、18年働いた会社を先行きの目処も立たないまま自ら辞めると言い出し、猛反対を受けながらも辞めてしまった。


そして、その再就職活動のさなか失業中にオヤジは他界した。

最後の最後で最大の親不孝だった。

かなり気掛かりのまま逝ったんだと思う。


あの時、会社を辞めてしまった事については今なお一切後悔はしていないし、判断は間違っていなかったとも思っている。
自分には自分なりの仕事と生活に対する一過性ではない思いとその理由があった。
でも当時、それをオヤジに伝えるだけの説得力はなく、完全な自信もないままに押し切った形でもあった。
もちろん妻にも相談し同意をもらっていた上での事だったが、
「何よりも家族を養っていく事がオマエの一番の使命なんやぞ」と、
オトコのあるべき姿を率先してきた立場からは甘っちょろくしか見えなかったのだろう。話は噛み合わなかった。
また、子供の一人は娘なのだが、
「女の子なんやから惨めな格好をさせたら可哀想やぞ」と念を押された。
最後の方には、「オマエの事は信じてるからな」と、
さりげなくそんな事まで言われた。
亡くなる少し前だったと思う。


かなり心配させたままで逝かせてしまったその時の事が、今なお心残りでならない。


オヤジは中学の頃、父親を病気で失い、戦中戦後の物が無い大変なとき、母親と二人で貧しい時代を過ごした。
そしてそんな辛く厳しいなか、立派に育て上げてくれた母親に対し人一倍の感謝の念と強い思いを持っていた。
併せて、その苦しかった時代にとても感慨深いものも持っていた。

祖母の葬儀の時、それまで家族の前で一度も弱みを見せた事がなかったその姿勢が、涙とともにもろく崩れ落ちた。
そんなオヤジを見たのは後にも先にもそれ一度きりだった。
とても驚いた事を憶えている。

勉強がよくできたのに、貧しかったせいで昼間働き夜間の大学へ通った。
仲の良かった高校時代の友人たちは裕福な家庭に育ち、それでもみんないい連中だったみたいで、何かあればいつも声をかけてくれて、場合によってはオヤジを気使い都合を合わせてくれたりもしたそうだ。
その時の事がとてもうれしくもあり、辛かったという話を聞いた事がある。
そこには、本当はひとには見せたくはない情けなく惨めに思う姿があったに違いない。

それでも、その見せたくなかった対象でもある友人たちとは晩年まで深い親交が続いた。
だから、
入院中の見舞いを一切断ったのは、
それが例え病気であったとは言え、オヤジにとっては若い時と同じ見られたくない情けない姿に変わりがなく、もう二度と味わいたくはない気持ちであったのだと思う。
また、自分が会社を辞めると言った事に猛反対したのは、子供や孫が同じように情けない惨めな思いをする事が耐えられなかったのだ。


子供には絶対に同じ思いをさせたくない。

そんな気持ちで自分を育ててくれたんだと思う。


そしてさらに、だからこそお金の大切さを痛感し、経理という仕事にやり甲斐を見出し、無駄を嫌い、逆に楽しむ時には思い切って楽しむという、そんな節約と贅沢のメリハリの効いたお金の使い方を率先し教えてもくれた。


改めて、

自分は、オヤジに感謝してもしきれない。

月並みだが、まともに向かうとそうとしか言う事ができない。

 


そんなオヤジだったが、マイペースななかに普段はくだらない冗談を言ったりする事もあり、必ず電車に傘を忘れて帰ってくるという慌て者で間抜けな一面もあった。

オフクロと違って手先が不器用だったし。

学生時代はバスケ部だったとも聞いたが、運動神経がむちゃくちゃいいという感じでもなかった。

でもスポーツのテレビ観戦は全般に好きだった。
野球は阪神ファン(オフクロは巨人ファン)で、阪神の試合がいつでも最後まで視れる神戸ローカル局サンテレビ(地元奈良では地上波で視れない)を視る事ができるというだけでケーブルテレビに加入したりする熱中ぶりだった。

酒はそんなに強くはなかったが、好きで毎晩晩酌をしていた。
特にウイスキーオンザロックでやるのが好きだった。
そういや、一度だけサシで飲みに行った気がする。その時の事はほとんど憶えていないけれど。

また、不器用なくせして、絵を描いたり、ハーモニカなんかも吹いた。
吹いてるところは何度か聴いた事がある。
1、2曲だったけど。
結構上手かった気がする?

今思えば、ハーモニカを吹くなんてちょっとオシャレな感じだ。

オシャレといえば、持っていた背広も多く、ほぼオーダーメイドだった。

バアちゃんやオフクロと共にクラシック音楽なども好きで聴いていた。

絵や音楽。
若い頃は貧しいなかにあって、そんな芸術への憧れもあったのかもしれない。

テレビの将棋や囲碁の番組も好きでよく視ていた。

加えて、競馬。
賭けないのに、競馬新聞を買ってきて、予想してテレビ中継を視るのが好きだった。

それと、自分はクルマに乗らないくせに、やたらと広範囲にいろんな道を知っていた。
今ならカーナビ要らずだ。

ヒトが遠出や旅行をするときには、時刻表で効率のいい行き方や時間を調べたりして教えてくれるおせっかい焼きな面もあった。


とても好奇心が強いひとだったんだと思う。

後、歳のわりに若く見られる事ですごく気を良くしていた。
そんな時はとても嬉しそうだった。


f:id:drapon000i:20180728214550j:plain

 


父の事に思いを馳せ顧みる時にはいつも、それにひきかえ自分は?...   そんな、いつまでもまったく超えられないし敵わないという気持ちでいっぱいになってしまう。

でも、いよいよ子供たちが、そんな父とつかみ合いのケンカをした時の自分と同じくらいの歳になってきて、初めてわかる親の気持ちと同時に、反面未だに、オヤジにはわかるまいという甘っちょろくも偉そうな思いも相変わらず懲りずに持っている。

そしてそれは、会社を辞めると言い出した時に父を説得しきれなかった思いでもあり、今なら、今の時代でしかわからない今を生きていく厳しさというものと共に少しはマシに話す事ができる気がする。

最近、ほんのちょっとかもしれないけれど、決して負けているだけではない、父にはなく自分にしかない自分らしさの良さというものの存在に改めて気づき、そしてその事に、自信...というより、自覚みたいなものを感じる事がある。
上手くは言えないけど、ここに来てようやくこの歳で、なんだかそう思う。

だけどそれも、父や、そして母と祖母が遺してくれた数多くのいろんなものの上に立っての事ではあるが。


今、息子や娘も社会人となって、それぞれの場所や環境で思い悩み始めてもいる。
そしてそれもまた、違う世代の違う思いや悩みなのであろう。
最近の子だし、さすがに息子とつかみ合いのケンカはした事はないが。
もちろん娘とも(笑)


親として、子として、普遍的な事。

そして、その時代時代で変わる感覚、価値観。

そんな事を本当は三世代でじっくり語りあえたなら。

そんな最早叶わぬ夢を想ったりもする。

 


オヤジ...


今一番話したいひとである。

 


f:id:drapon000i:20180728230618j:plain